以前電車内で吹奏楽部らしい高校生が他のパートの文句を言っていた
という文章を書いた。
その時は怒りのボルテージを上げて対話することの危険を書いたが
ある集団で怒りを感じる、もしくは上手く自分の思うように集団が
向かっていない憤りを感じる原因のほとんどは温度差 だろう。
「俺はこんなに頑張っているのにあいつは・・・」
その怒りは徐々に
自分と同じようにやらないと集団はよくならない
という集団の中における ある意味完璧な正義感を生み出す。
その正義感が生み出す行動はおよそは
粛清、批難 「あいつがあんな態度だからうちの集団がだめなんだ」
そういったもので
それは対立構造を生み出す。
それらが時代の流れの中で上手くアウフヘーベンされて
その集団をブラッシュアップすることは
あるだろうし、事実オーケストラという集団の中ではそんな事例も
目撃してきた。
ただ そこで完全な対立構造を作り出してしまうと
集団はうまく機能しなくなる。
自戒の意味も込めてだが、のぼせ上らない。複眼的な思考を忘れない
学生のころはよく生じた問題なのでよくこんなことを考えていたが、
最近岩田先生の本を読んでまた改めて考える。
まさに! とおもった部分があったので忘れないように書いておく。
以下『「患者さま」 が医療を壊す』 より抜粋
自由とは一見逆説的ですが自分で自分を束縛し、適切にふるまうための
ツールなのです。自由を与えられたからといって気ままに好き勝手していいわけではなく
(またできるわけもなく)自分を律して適切に「半歩遅れて」ふるまうのが大人のやり方
なのです。それを他人から強制されず「自主的に半歩下がる」
ということが大事なのです。
強制的に他人にやらされていない、というところにこのふるまいの高貴で美しいところが
あります。この美しさを僕たちは希求しなくてはならないのです。
これこそが対立を回避するためのツールなのです。
(中略)
医者と患者が平等であるべきだ というポリティカリーコレクトな言説が医者も患者も
不幸にしてしまいました。悲しいことです。
これは男と女が平等だ、とさけぶとぎくしゃくしてしまうのと同じです。
それは正しいのですが 叫んじゃいかんのです。
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