2014年2月9日日曜日

HIROSHIMA の話題で色々考えた。
メモを残しておく。 

音楽に触れるとき

作曲者 あるいは 演奏者のストーリーに左右されて 心を動かされる。

それの是非について。
音楽はそうした背景やストーリーも全てまぜこぜにして
演奏会、CDをかけている瞬間、そこで聴き手の心を動かすもの
で、それの是非はないと結論した。

作られたストーリーであろうが、チープな情熱であろうが
それがあることで より心を動かされたのであれば 合計して良い音楽
ではないか?

以前
その音楽のよさは 演奏者の純粋なる情熱 のベクトルと
演奏者、作曲者の単純な技術の高度さ、作品への冷静で高度な理解 のベクトル

があってそのベクトル和が大きいほど良い演奏 と書いたことがあるかもしれないが、
今回のHIROSHIMAの 嘘だったストーリーなどは前者のベクトルに入れられるのかもしれない。

例えば名指揮者 ケルテスの亡くなった後、ウィーンフィルが録音途中だったハイドンバリエーションの最終変奏を指揮者なしで演奏したCD 
自分はすごく感動した。 背景を知らない状態で聴いた場合とは
確実に違う感動だったと思う。

高校の定期演奏会、大学の定期演奏会にしても それが最後の演奏
という ストーリーが よりベクトルに加算をもたらしているだろう。

卑近な例でいえばタワレコのCDに貼ってある店員さんのコメントww

後者のベクトルが大きくなってくればきっと前者のベクトルの嘘が見えるようになってくるだろう。
そうしたときに全体の総和が小さくなってしまう事もあるかもしれない。

でも後者のベクトルを大きくする作業は真の情熱、真のストーリーを見極められることに
近づくこと、そうなれば比較にならないくらい 総和は大きくなるのではないか 

と思うのだ。

多分今の自分はその間くらい。といっても間のどの辺なのかは不明。
だから音楽は楽しい。