2013年11月15日金曜日

言葉と音楽 といえばもう一つ疑問が生じる

ドイツ語を母国語として ベートヴェン ブラームス バッハも曲を書いている。
もちろん音楽は世界共通言語 それらの曲は我々にも大きな感動をもたらす。。

が 本当に十分にドイツ語を母国語としない我々に ドイツ語を母国語としている
人々と同じ 音楽の理解ができているのだろうか??
ドイツ語の音声をただたどっただけの日本人が演じるドイツ劇が滑稽なのはわかる。
しかし日本人が演奏するブラームスはそういう滑稽さをわずかでも含むのだろうか??

音楽は言語より先に生まれたものだと理解しているが
その壁は ありや なしや 
音楽的成熟 とは何だろうか?
息子のピアノを教えていて思った。

ピティナの検定をうけるという事で2ヶ月ほど同じ曲を練習していた。
ひけるようになっている。 それはよい。
しかし1ヶ月ほど前にまずまず弾けていた時よりも圧倒的に
「つまらない」 のである。

音の抑揚、フレーズの処理 
ある曲が弾けるようになってきた頃には新鮮であったそれらのものが
彼の中で 飽きてしまったのだろう。

ベートーヴェンの簡単なソナチネである
簡単ではあるけども やはり メロディーのやり取りや 展開の楽しさ
フレーズの美しさなど 魅力はたくさん。
弾けるようになって来るとそれらの者が息子の演奏からは全くなくなった。

さて これは難しい。
自発的にソレを表現したい と思わない状態で ソレ らしい味付けをした
演奏などは最も忌むべきものだと思うからである。
結果最低限の曲の流れ を止めない様なアドバイスをして本番へ送り出した。

「つまらない」 というのはお師匠から何万回と言われた言葉であるが
つまらない の理解が一段実感として深まった気がする。

以前演奏することについて文章にした事があった。
演劇と音楽には似たところがある ということだ。

台本があって、各々役を演じることで 台本の世界をその場に具現させる。

英語の台本を、英語の全くわからない人が音だけを完璧に再現しても
人を感動させることはできないだろうし、漫画しか読んだことのない子役が
ドストエフスキーの主役となって 演じても セリフは完璧であろうが
滑稽だ。

母国語の呪縛は非常に強く例えば
日本語における「さくら」 という単語は そこから想起される色彩感や季節感
はたまた思想までが背景にある。、そこも乗り越えて外国語をやるのは非常に困難
と言ったのは夏目漱石だったか

技術の中途半端な向上から生まれる 慣れ を克服するのは
音楽そのものへの理解と愛情だろう。 大学生くらいになりゃできそうなもんだ。