2014年2月9日日曜日

HIROSHIMA の話題で色々考えた。
メモを残しておく。 

音楽に触れるとき

作曲者 あるいは 演奏者のストーリーに左右されて 心を動かされる。

それの是非について。
音楽はそうした背景やストーリーも全てまぜこぜにして
演奏会、CDをかけている瞬間、そこで聴き手の心を動かすもの
で、それの是非はないと結論した。

作られたストーリーであろうが、チープな情熱であろうが
それがあることで より心を動かされたのであれば 合計して良い音楽
ではないか?

以前
その音楽のよさは 演奏者の純粋なる情熱 のベクトルと
演奏者、作曲者の単純な技術の高度さ、作品への冷静で高度な理解 のベクトル

があってそのベクトル和が大きいほど良い演奏 と書いたことがあるかもしれないが、
今回のHIROSHIMAの 嘘だったストーリーなどは前者のベクトルに入れられるのかもしれない。

例えば名指揮者 ケルテスの亡くなった後、ウィーンフィルが録音途中だったハイドンバリエーションの最終変奏を指揮者なしで演奏したCD 
自分はすごく感動した。 背景を知らない状態で聴いた場合とは
確実に違う感動だったと思う。

高校の定期演奏会、大学の定期演奏会にしても それが最後の演奏
という ストーリーが よりベクトルに加算をもたらしているだろう。

卑近な例でいえばタワレコのCDに貼ってある店員さんのコメントww

後者のベクトルが大きくなってくればきっと前者のベクトルの嘘が見えるようになってくるだろう。
そうしたときに全体の総和が小さくなってしまう事もあるかもしれない。

でも後者のベクトルを大きくする作業は真の情熱、真のストーリーを見極められることに
近づくこと、そうなれば比較にならないくらい 総和は大きくなるのではないか 

と思うのだ。

多分今の自分はその間くらい。といっても間のどの辺なのかは不明。
だから音楽は楽しい。












2013年11月15日金曜日

言葉と音楽 といえばもう一つ疑問が生じる

ドイツ語を母国語として ベートヴェン ブラームス バッハも曲を書いている。
もちろん音楽は世界共通言語 それらの曲は我々にも大きな感動をもたらす。。

が 本当に十分にドイツ語を母国語としない我々に ドイツ語を母国語としている
人々と同じ 音楽の理解ができているのだろうか??
ドイツ語の音声をただたどっただけの日本人が演じるドイツ劇が滑稽なのはわかる。
しかし日本人が演奏するブラームスはそういう滑稽さをわずかでも含むのだろうか??

音楽は言語より先に生まれたものだと理解しているが
その壁は ありや なしや 
音楽的成熟 とは何だろうか?
息子のピアノを教えていて思った。

ピティナの検定をうけるという事で2ヶ月ほど同じ曲を練習していた。
ひけるようになっている。 それはよい。
しかし1ヶ月ほど前にまずまず弾けていた時よりも圧倒的に
「つまらない」 のである。

音の抑揚、フレーズの処理 
ある曲が弾けるようになってきた頃には新鮮であったそれらのものが
彼の中で 飽きてしまったのだろう。

ベートーヴェンの簡単なソナチネである
簡単ではあるけども やはり メロディーのやり取りや 展開の楽しさ
フレーズの美しさなど 魅力はたくさん。
弾けるようになって来るとそれらの者が息子の演奏からは全くなくなった。

さて これは難しい。
自発的にソレを表現したい と思わない状態で ソレ らしい味付けをした
演奏などは最も忌むべきものだと思うからである。
結果最低限の曲の流れ を止めない様なアドバイスをして本番へ送り出した。

「つまらない」 というのはお師匠から何万回と言われた言葉であるが
つまらない の理解が一段実感として深まった気がする。

以前演奏することについて文章にした事があった。
演劇と音楽には似たところがある ということだ。

台本があって、各々役を演じることで 台本の世界をその場に具現させる。

英語の台本を、英語の全くわからない人が音だけを完璧に再現しても
人を感動させることはできないだろうし、漫画しか読んだことのない子役が
ドストエフスキーの主役となって 演じても セリフは完璧であろうが
滑稽だ。

母国語の呪縛は非常に強く例えば
日本語における「さくら」 という単語は そこから想起される色彩感や季節感
はたまた思想までが背景にある。、そこも乗り越えて外国語をやるのは非常に困難
と言ったのは夏目漱石だったか

技術の中途半端な向上から生まれる 慣れ を克服するのは
音楽そのものへの理解と愛情だろう。 大学生くらいになりゃできそうなもんだ。











2013年10月31日木曜日

「こうすれば必ず子供たちは市民的に成熟する」という必勝の教育法は存在しないということであった。
あらゆる子供のうちにそれぞれ固有の豊かな資源が潜在している。それが、いつ、どういうきっかけで開花することになるのかはひとりひとり全員違い、かつ予測不能である。
だから、もっとも効率のよい教育方法は「さまざまな教育理念に基づいて、さまざまな教育プログラムを、さまざまな教育技術をもつさまざまな教員が実施すること」になるのである。
子供ができるだけ多様な「トリガー」に触れること。
迂遠だが、この「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」方式以上に効率の良い教育方法を私は知らない。

2013年10月19日土曜日

音楽は楽しい。 貪欲に求めれば求めるほど 無限に楽しさは高みへ向かう。
音を出して 合わせて楽しければそれでいいじゃないか という意見に関しては
ほぼ正しいと思う。 でも だからこれくらいで・・・ となってしまえば もうつまらなくなる。

勉強なんかしなくたって 今やってるゲームは楽しいし 食べる菓子はうまいし いいじゃないか
まあそうです。

でも よりおもしれえことが世の中には満ちていて それはどの方面においても無限にある。
そのよりおもしれえこと にアクセスするために勉強する もしくはアクセスしたいと思う様に
教育する。

そうしてやってきてないか?

2013年7月9日火曜日

水戸室内管弦楽団 1

2013年7月8日 梅雨明け直後、朝からの湿気と高温で雷鳴がとどろく夕方
かねてより計画していた水戸室内の定期 @サントリー
業務を無理やり整理して 何とか間に合う時間に到着!

細川俊夫 室内オーケストラのための<開花II>(日本初演)

ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番  ピアノ 小菅優

シューベルト 交響曲第8番 グレイト

             指揮 準・メルクル

演奏前に先日亡くなった潮田さんの追悼のためモーツアルトが演奏されるという
通知がパンフにもはさまれていた。
月曜夜にもかかわらずほぼ満席のサントリーの照明が客席も舞台もゆっくりと落ちてゆく。
ゆっくりゆっくり演奏者が舞台に出て 着席。
指揮者が。。。。 ん!!!!?????

小澤さんだ!! 会場全体一気に緊張感が高まる。ざわつかなかった。
「なにか特別な空間にいる」 という会場の共通の感覚。

完全に物音がなくなった所から小澤さんの腕が上がり 始まるモーツアルト 

あの演奏自体を表現しうる言葉を自分はまだ持たない。 ただ Durなのにとても
悲しく、やさしく。 そうか 悼むとはこうしたこと。。。  そう思いながら
ただ顎においた左手を そのまま動かせず曲が終わった。

静寂のまま奏者は退場。「拍手はお控えください」など アナウンスもメモもはいっていなかったが
誰一人物音を立てなかった。 

「何もかも透明になっていった」 とある人が表現していたが 少し近いかもしれない。
 
              続く。

2013年5月22日水曜日

90代女性

90を超えた女性。
数回の脳梗塞をくりかえし、時折発語があるが実用的コミュニケーションはとれず
寝たきり。 経口摂取は困難であったが、家族の希望で胃瘻増設なし。
15年ほど前から施設入所


脳梗塞急性期は病院で過ごしたものの経口摂取は困難。
しかし
月額40~50万の施設で1日数時間かければ経口摂取が可能であったため
新しくさがしたその施設へ入所

3人娘がおり、各々自立 孫は多数 孫もほぼ自立。

「夫婦でためた貯金であるから二人のために使えばよい。」
3人の娘はそう考えて 母の入所を継続。

「家ではあれほど時間をかけて上手には食べさせられない」
「どこかの家庭でみれば そこに多大な負担がかかる」
「介護負担で3人のどこかが倒れれば下の世代に負担がかかる
 それは避けたい」
 
それらしく聞こえるが・・・・。

まずその女性は 夫とようやくためたお金をそのように使ってほしかったのか?
子孫たちが困った時に虎の子としてとっておく大事なお金だったのではないか?
月50万 年間600万 
孫やひ孫が 家庭の事情で進路をあきらめざるを得なくなるかどうか瀬戸際で
救われることがあるはずじゃないのだろうか?


介護負担 という点では既に発語も乏しく、動くこともできない。
本人の運動障害は重篤だが 介護負担は逆に低い。

下の世代 というが
自分たちが泥を飲みたくないために下の世代に残すべき金を浪費している
という言いかたもできる。

泥 とはなにか?
「なすすべなく自宅で母が死ぬことの十字架を背負う事?」
「自宅で介護をする労力??」

家族と協力者がその時置かれた状況でできるケアでは命をつなぐことが
できなくなったとき。 高齢者において とくに超高齢者においては
そこが寿命では  だめですか?

家族でない者に1日数時間かけて食事をとらさせられ、
子孫のためにためたはずのお金を「あなたのため」 という事で
どんどん使われることと、
家族の手間を省くため胃瘻をつくって しかし自宅でなんとか
みていくことと・・・。 どちらが侵襲的 だろう。

今の自分は圧倒的に前者が侵襲的であるとおもう。