2011年7月12日火曜日

演奏する

夏休みも終わり がりがり仕事である 
がりがり仕事してると 逃避がしたくなる というわけで 演奏するということ

前も同じようなことを書いたかもしれないけども

全員が必死に頑張っているオーケストラはそれなりに聴きにいったら感動することだろう
だけども音楽の楽しさはそこだけじゃない。

役者と音楽家は似ているところがあると思う。
台本があって セリフを読む。

あるセリフを読む場合、役者はその登場人物人物としてそのセリフを吐くはずである
役者をやったことはないけども
その登場人物の人格、それまでの文脈、そういったことが背景にあって
その言葉が出てくるはずで、役者その人の言葉として出てしまうようなら
大根役者であろう。日本語をそれほど話せない外国人が
同じセリフを吐いても、伝わるものは完全でないだろうし、
いかに天才役者でも 「小説なんか読んだことありましぇん」という人が
ドストエフスキーの原作舞台で真実の演技ができるとは思えない。


楽譜を台本に切り替えると、
ある部分のメロディーの美しさ、リズムの楽しさ
に没入してしまっては カラオケで好きな歌を歌っている状態とそう変わらない
つまり大根役者なのではないだろうか・・・。 

さらにいかに楽器が上手くても、
「クラシックってかたくてつまんないよね」 という人がバッハを弾いても
真の感動は引き起こさないと思う。

音楽の凄さは世界共通言語であるということで
英語の話せない役者が、シェークスピアを英語で演じることは非常に困難であろうが、
英語が話せなくても エルガーの描く世界を想起することは可能である。

さっき書いたような音楽的素養の低い人間の演奏でも 完璧に譜面が再現されていれば
何らかの世界がそこに展開されてしまう。

自分の演奏はというと そりゃあもうすごく個人的な感情バリバリで
自分で書いたようにカラオケ的な要素がどうしても強くなってしまう。
だけども台本をもっと深く理解できれば、技術がそれを再現することを
目的になってくれば、ひょっとしたらもっと音楽が楽しくなるのかもしれない。

つまり 台本(譜面)をどう理解して どう作品が構築している世界を再現するか
その表現の仕方に 個性が出てくるのではないだろうか

気持ち悪いポルタメント、甘ったるい節回しで にわかの聴衆に迎合した
、それを個性と勘違いした音楽など 先が知れているのである。

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